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理解する努力を続けるということ

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ぼくがそのニュースを知ったのは、山陰の小さな駅舎にいるときでした。
誰もいない待合室でぽつんとひとり、古びたテレビが伝える長崎県佐世保発の映像を眺めていました。
天井から吊るされたテレビに、闇に染まる小学校が映っていたのが印象的でした。
なんだかひどく気が重く、駅へ到着した折り返し列車に、足を引きずるように乗ったのを覚えています。
ほかに乗り込む乗客の姿はなく、寂しい車内のなかで、どうしてそんなことをしてしまったのだろうかと、そんなことばかり考えていた気がします。

あの日から、3ヶ月と少しの月日が過ぎました。

そして昨日、家裁へ送致された女児の保護処分が決定されました。
行動の自由が制限される児童自立支援施設で今後2年間、保護観察下におかれるという決定が。
刑事責任が問えない14才未満では、最も厳しい処遇らしいです。

新聞報道によると、女児はいまも事件の重大性を実感できずにいるといいます。

カッターで切られると痛いことは知っているし、血が出ることも知っている。
人が死ぬということも、知ってはいる。
大切な人がいなくなると、人が悲しむことも知っている。
それがいけないことだということも、もちろん知っている。

こんなことは子どもでも知っていることです。

でも、知っているということは、理解していることではない。
と、今回の事件で思います。
11才。幼いといってしまえば、それまでかもしれない。
でも、だからって、なぜ同級生の命を奪ってしまったのか。

被害者の父親が書かれた手記を読みました。

「子どものすべては理解できないと分かったうえで、理解する努力を続けてください。それぞれの家がそれぞれのやり方で」

大人へなれば、すべてを理解できるようになるとは限りません。
本当の理解とは、自分の頭で考え、苦労することで得るもの。
ぼくら大人たちもまた、女児が突きつけた「なぜ?」を理解する努力が必要なんだと思います。

*旧ブログより*

2004.9/16