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『時代だから』っていうけれど…

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昨日、知人に誘われ、ホームパーティーへ参加しました。
独身者はぼくのほか少数で、ほとんどが既婚者で子どものいる方たち。
親と一緒に来た子どもたちと遊び、ひさしぶりに子どもたちの世界を味わいました。

子どもを狙った犯罪が多発し、それを伝えるニュースに触れるたび、ぼくら大人たちの責任について考えます。
また、そんな状況にある子どもたちのことも考えずにはいられません。
小学校へもスクールバスを導入し、すべての子どもたちに防犯ブザーを持たせることが、安心して暮らせる社会の姿ではないはず。
なるべく管理をしない方向でいけるのなら、それにこしたことはない。
でも、でも、でも。
なんでこんな社会になってしまったのだろう。
答えのない問いを日々考えています。

2005.12/20

40年目の夏の日に

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本日、熊本県を流れる川辺川に建設が進められているダム事業を巡って、大きな動きがありました。

川辺川ダム建設にあたり、国土交通省が水没地域の土地及び漁業権の強制収用手続きを申請していた熊本県収用委員会が、本日の審理で「裁決申請の取り下げ」を国土交通省に対して勧告したのです。

そして更に「取り下げの期限を9月22日までとして、国土交通省がそれまでに取り下げない場合は次回の審理(9月26日)で審理を終結し、そのあと却下の裁決を郵送する」と通告を行ったのです。

国土交通省の前身である建設省時代も含め、国家による大規模公共事業の強制収用手続きに“ノー”という判断が下されるのは初めての出来事ではないでしょうか。
極めて異例といってもいいかもしれません。
審理開始から3年半近く経ての今回の県収用委員会の決断に、深く敬意を表します。

本日の審理の結果、国土交通省には「取り下げ」か「却下裁決」かという2つの選択肢しかありません。
計画が発表されてから40年という月日が流れ、過ぎ去った時代と共に川辺川ダム計画の目的は消失し、ダムに代わる治水案も提案されています。

国土交通省は勧告にしたがって申請を取り下げ、そして川辺川ダム計画の中止を選択するべきだと、ぼくは強く思います。
そして、そのような結果をぼくは強く求めます。

英断を期待しています。

2005.8/29

国土交通省 殿

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国土交通省 殿

私は五木村田口に住む尾方茂です。
これまで私は、国との間で、権利や移転についての協議を行なってきました。しかし、私の農地に関する希望や、現在の生活において不安に思うことについては、ずっと解決されないままになっています。そのため、私の希望や気持ちを整理して一度伝えるため、本日こうして訪問しました。
解決して下さるよう、どうぞよろしくお願い致します。

川辺川ダム計画ができて、39年の月日が過ぎようとしていますが、毎日の生活の中で、ダム問題は常に私の心の中にあります。「どうなるのだろうか、ダムはできるのだろうか、できないのだろうか」という、不安が長い間あります。
できることなら、私が先祖からうけついできた家や田畑は、このままにしていてほしいと思っています。土地は簡単に売り買いするものではないと、小さいころから教えられてきました。人に迷惑にならない限り、今のままの生活が一番いいと思っています。

わたしが先祖から譲り受けた財産は、わずかなものであるがゆえに、大切に思っています。代替地造成のために5反の農地を手ばなした今、いっそう強く、そう思います。代わりの農地を造成して、早く配分してほしいと思っています。
今の代替地には農地がなく、生活していけるのだろうかと不安に思います。農地のない代替地へ移って、百姓はどうやって生活すればいいのですか。生活の見通しが立たない場所へ移りたくないと思っています。ここなら金が少々なくても、水もお茶も畑もすべてあります。ぜいたくをしない、今の生活が私には一番あっていると思います。

国交省は、新しく人が変わると、あいさつしに来られることがあります。そのたびに、私はまた始めから説明しなければならない。「話は前の担当者から引きついでいる」と言うが、本当に引きついでほしいことが伝わっているのだろうか、というふうにも思います。

国交省が今までに何をしてきたか。行政職員は、住民のために仕事をするのが本来の仕事である。それが、飲み水に使っていた貯水槽を壊してしまったり、裏山の木を切ってしまったり、田口溝ノ口水道の管理をしてやると言いながら、土砂で埋まったままにしていたり、墓地にあった、私の父親が植えた桜の木を全部切ってしまったり。やっていることは、本当に住民第一と言えるのか、分からない。
私に限ったことではない。村に対してもそうではないのだろうか、というふうにも思います。

代替農地についても同じことである。代替農地を造成する時に、私は5反の農地を手ばなした。平成8年ごろだった。田や畑の一枚一枚に、さまざまな思い出があった。調印するとき、国が強引なやり方をしたことを、私はよく覚えています。建設省の職員が私から印かんを借り、そのまま押してしまった。私がその書類を見ようとしても、「見ることはいらん」と、見せてもらえなかった。あまりにひどいやり方なので、腹が立って、県の人に言ったところが、「どうにかしてやる」と言って、農地を造成したあとの配分のことについての覚え書きを作ってくれた。農地が造成されたら、5反分を私に売ってくれるという内容だった。
今では、覚え書で、期限を区切っておれば良かった、という後悔の気持ちもある。いまだに、それがいつのことになるのか、分からないのだから。

ダムができるかできないか、はっきりと分からないうちは、できれば、まだ移転をしたくないというふうに思っています。
ダムを作ることがはっきりと決まれば、仕方ないと思います。どうしても移転をしなければならないのであれば、農地については、お金による補償ではなく、別の農地と交換してほしいと思っています。場所は、今と同じように、自宅から近いところでなければならないと思います。
先日の協議のとき、白坂課長はいろいろなことを話しました。「新しい農地でも作物が作れるように、下の農地の表土を持っていくことを考えている」とか、「今の代替地にある空き地を試験耕作させることも考えている」とか、「完成した代替農地から先に、配分していくことも考えている」とか、いろいろ言われたが、何ひとつ、確実なことはないではないか。私との約束がいつ守られるのか、具体的な時期や場所、広さ、どのようなやり方でやるのかを、きちんと教えてほしいと思っています。

今年4月に、裏山の立ち木が全部切られてしまいましたが、私の家は山のすぐ下にあり、山のなかばあたりには、私が飲み水や生活水として使っている水路、田口溝ノ口水道があります。先日、木がなくなったために土砂が流れ、かかえきれないくらい大きな石が、水路に落ちていました。人を呼んで手伝ってもらって、やっと取りのぞくことができました。これから梅雨や台風が来ると、石や木が流れて落ちてくるのではないかと不安な気持ちを持っています。
ダムができるかできないか分からないうちは、できたら、水没地の木などはそのままにしておいてほしいと思っています。
生活権をおびやかさないでいてほしいと思います。

年をとり、私は目がだんだん見えなくなってきています。私はもうすぐ78歳になります。これから先を考えると、残っている時間は長くはありません。私はこの場所で死んでもよいと思っています。「ダムはできるのだろうか、できないのだろうか、私の将来の生活はどうなるだろうか」と、ずっと考えてきましたが、できたら、残りの時間は、不安のない、おだやかな生活を送りたいとも思います。
どうぞ宜しくお願いいたします。

平成17年5月23日
尾方 茂 
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上記文書は熊本県五木村に暮らす尾方茂さんが書かれたものです。
尾方さんは妻のチユキさんと、川辺川ダム完成後は水没する予定の集落に、いまも暮らしています。

川辺川にダムが計画され、五木村は大きく変化していきました。
かつては村の中心地として栄えた集落も、いまではほとんどの家屋が取り壊され、雑草が寂しく茂る土地が広がっています。
それでも尾方さんは山の上に造成された代替地や他所へ移り住むことなく、山から水をひき、カマドを使い、田を耕し、作物を育て、四季に暮らしを合わせたこれまでと変わらぬ自給自足の生活を続けています。
先祖代々にわたって300年以上、この土地で生活できたのも「土」があったからだと、尾方さんは思っています。

新しい住宅が建ち並ぶ高台の代替地は、尾方さんたちが提供した農地の上に造られました。
肥えた土を埋め立てる造成工事の前、尾方さんはいてもたってもいられず、畑の土を袋へ詰めて持ち帰り、村内の寺で供養してもらったといいます。
そのときの土は、いまも大事に保存されています。
土は将来、造成されるという代替農地へ撒くんだそうです。
しかし、その目処はいまも立っていません。

昨年、尾方さんの自宅は、国交省によって強制収用申請が出されました。

ダムがでけんなら、そっちがよか。
ずっとここで暮らしたかですから。

二年前の冬、柚子が転がる自宅の裏山に腰掛け、尾方がぽつりと言った言葉です。

球磨川最大の支流である川辺川は、本流よりも清らかな水がとうとうと流れています。
この川にダムはいらない、そう思います。

2005.6/ 2

あと何人自殺したら工事を止めますか

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九州に来ています。
昨日、久しぶりに諫早湾を眺め、普賢岳の麓を歩きました。

諫早湾が潮受け堤防で閉め切られてから8回目の秋。
堤防の内側、潮の満ち引きがなくなった土地にセイタカアワダチソウが広がっていました。
風に揺れ、ざわめく黄色の花々。

今年も、もうじき海苔養殖の季節がやってこようとしています。

当初から危惧された諫早湾閉め切りによる漁業への影響は、年を追うごとに深刻さを増し、いまや堤防の外側に広がる有明海は瀕死に近い状況だといわれています。

今年7月。
承諾殺人罪に問われたある男性の判決が福岡地裁久留米支部で言い渡されました。

有明海で海苔養殖を営んでいた男性の裁判です。
男性は借金苦から母親との心中を決意し、自宅隣の作業小屋で母親を殺害した罪に問われていました。

母親は殺害前、男性に「お前とならよかよ。父さんの借金ば、担がせてごめんね」と語ったそうです。
そして息子に首を切られ、失血死で亡くなりました。
後に続こうとガソリンを浴びた男性は、100円ライターを握りしめたものの、子どもの顔が頭に浮かび、手が震え、どうしても火をつけることができなかったといいます。

海苔の不作が続き、漁具購入等で借り受けた資金返済の目処が立たず、働いても働いても苦しくなる生活に絶望した末の行動と、判決にはあります。

検察側の求刑は懲役5年でしたが、判決は「懲役3年・保護観察付きの執行猶予5年」。
窮状に理解を示し「同情を禁じ得ない」という言葉で、ひとつの裁判は終わりました。

約4000人もの有明海漁民が「不作が続き、多額の借金を抱え、将来が見えない。今回の事件は他人事ではない」と、男性に対して寛大な判決を求める嘆願署名を提出したことも判決に影響したのかもしれません。

東京新聞(2004.8.28付)の記事によれば、有明海周辺では干拓事業開始後に70人が自殺し、影響の大小こそあれ、漁業不振は無視できないほど深刻な影を落としています。

「あと何人自殺したら工事を止めますか」

海苔不作に代表される漁民の度重なる訴え。
そのあまりにも悲痛な言葉に、おもわず息が止まります。

事業の中止、水門の開放を求める漁民の声に、政府は真摯な態度で耳を傾けてほしい。
そしてこのような悲劇を繰り返さぬ決断をしてほしい。
切に、そう願います。

*旧ブログより*

2004.10/16

理解する努力を続けるということ

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ぼくがそのニュースを知ったのは、山陰の小さな駅舎にいるときでした。
誰もいない待合室でぽつんとひとり、古びたテレビが伝える長崎県佐世保発の映像を眺めていました。
天井から吊るされたテレビに、闇に染まる小学校が映っていたのが印象的でした。
なんだかひどく気が重く、駅へ到着した折り返し列車に、足を引きずるように乗ったのを覚えています。
ほかに乗り込む乗客の姿はなく、寂しい車内のなかで、どうしてそんなことをしてしまったのだろうかと、そんなことばかり考えていた気がします。

あの日から、3ヶ月と少しの月日が過ぎました。

そして昨日、家裁へ送致された女児の保護処分が決定されました。
行動の自由が制限される児童自立支援施設で今後2年間、保護観察下におかれるという決定が。
刑事責任が問えない14才未満では、最も厳しい処遇らしいです。

新聞報道によると、女児はいまも事件の重大性を実感できずにいるといいます。

カッターで切られると痛いことは知っているし、血が出ることも知っている。
人が死ぬということも、知ってはいる。
大切な人がいなくなると、人が悲しむことも知っている。
それがいけないことだということも、もちろん知っている。

こんなことは子どもでも知っていることです。

でも、知っているということは、理解していることではない。
と、今回の事件で思います。
11才。幼いといってしまえば、それまでかもしれない。
でも、だからって、なぜ同級生の命を奪ってしまったのか。

被害者の父親が書かれた手記を読みました。

「子どものすべては理解できないと分かったうえで、理解する努力を続けてください。それぞれの家がそれぞれのやり方で」

大人へなれば、すべてを理解できるようになるとは限りません。
本当の理解とは、自分の頭で考え、苦労することで得るもの。
ぼくら大人たちもまた、女児が突きつけた「なぜ?」を理解する努力が必要なんだと思います。

*旧ブログより*

2004.9/16

被災お見舞い

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今回の日本海沿岸での集中豪雨によって被害にあわれた皆様の一刻も早い復旧をお祈りし、お見舞い申し上げます。
一時間あたりの雨量が80mm以上という異常ともいえる天候だったとはいえ、報道から知るその被害の深刻さに声が出ないほど驚いています。

そして今回の豪雨によって深刻な被害にあわれた福井県美山町蔵作は、昨年8月に野外移動写真展を開催したまさにその現場であり、開催から一年が過ぎた今でも、その時の経験や出会いは昨日のことのようにぼくの身体に染み付いています。

さらに昨年この写真展に手弁当でサポートしていただいた方のなかにも直接的な被害を受けられた方がいると聞き、テレビや新聞の向こう側の出来事ではなく、とても身近なこととして心配しています。

「こんな文章を書いている暇があったら、つべこべいわずスコップを握りしめて駆けつけてこい」とお叱りを受けるかもしれませんが、書かずにはいられなかったのでこのページを作成しました。
現地から届いた情報や報道などで知り得たボランティア募集等を本当に十分とはいえませんが以下にリンク(現在はボランティア募集終了のため、転載にあたってリンクは見合わせました)しておきます。この他にも紹介した方が良いと思われるサイトや情報等をご存知の方がいましたら、また見つけた方は、ぜひご連絡をお待ちしております。宜しくお願いいたします。

一日も早く、災害前の日常を皆様が取り戻せることを切にお祈りしております。

*旧サイトより*

2004.7/22

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