ホーム 川ガキについて 写真展情報 紹介記事 コラム サイトについて プロフィール お問い合わせ もくじ

ベトナムの“川ガキ”

060118.jpg

2006年の元旦は、ベトナムにあるカントーという街で迎えました。
この街はメコンデルタ最大の都市でありながら、メコン川をはじめ、数え切れないほどのクリークが存在し、暮らしのなかに存在感を持って「川」が生きている街だと言えるかもしれません。
できることなら、移り住んでもいいな。と、思ったほど、カントーに滞在した数日はとても充実とし、得るものが多かった旅となりました。
折りをみて、この街で見たこと、感じたことを記したいと思います。

2006.1/19

なさい星人

050906.jpg

「地球のたまご」での写真展設営のため、浜松へ向かったときのこと。

朝7時に東京駅を発った新幹線車内では爆睡。
静岡駅に停車し、車内が騒がしくなったことで、やっと目覚めました。
でも、まだまだ身体は寝ボケ状態。
再び眠り込んでしまわないように、耳に付けていたイヤホンを外してiPodを仕舞い、なんとはなしに車内に充満する賑やかな話声を聞いていると、通路を挟んだ隣席の声がひときわ目立っているのに気付きました。

隣席に座っていたのは、小さな男の子と女の子と母親の3人。
気になった声の正体は子どもではなく、母親のものでした。

「ペットボトルをちゃんと持ちなさい」
「ちゃんと座りなさい」
「よしなさい」
「やめなさい」
「〜なさい。〜なさい。〜なさい」

母親は1分間に何度も「〜なさい」という言葉を口に出し、その言葉は途切れることなく続きました。
男の子は無邪気なもので、何回も「〜なさい」と言われても、新幹線の旅に興奮し、楽しくて仕方ないって感じ。
ぼくには、子どもたちがちゃんと座っていたように見え、ペットボトルを持っているように見えたんだけどなぁ。
ペットボトルのことで注意された女の子は、少し怒ったような顔で「もういらない」とふてくされていたようでした。

嫌でも聞こえてくる注意や命令を促す言葉のオンパレードに、こちらまでもが気分が悪くなってきます。
「あの〜、一番うるさいのはお母さんなんですけど」と、口に出掛けたところで浜松駅が近いとの車内アナウンス。
日常的に抑制されて生きていくのって、けっこう辛いよなぁ。

2005.9/ 6

昔を思い出してしまいました

050711.jpg

今年5月のこと。
作品撮りを兼ねて徳島へ出掛け、「吉野川まる遊び」に参加してきました。
「吉野川まる遊び」とは吉野川中流にある善入寺島という巨大な中州で毎年開かれる、自由気ままな雰囲気が漂うイベントのことです。
川好きが集まってできた「吉野川シンポジウム実行委員会」という団体が主催し、それぞれの得意分野を発揮しながら今日までイベントが開催されてきました。

河原に着くと懐かしい顔が散らばっていて、おもわず頬が緩みました。
3年前の「川の学校」を卒業した子どもたちが数人参加していたのです。

元気してるかぁ?
大きくなったなぁ〜。
いま、何年生になったの?

などと声を掛け、ボクの身長とそう変わらないぐらいまで成長した子どもたちと再会を喜びました。

その晩。
ゲストとして参加していた野田さんやBE-PAL誌で活躍の雑魚党の方々のトークが終わり、夜も更けてきたころ、焚き火を囲む子どもたちの姿をみつけました。
火のまわりには数人の若いスタッフの姿もあったので、ボクも仲間に入れさせてもらいました。
火遊び自由、消灯時間がないのが自慢のイベントです。

ボクはその場にじっと耳を傾け、子どもたちの会話を楽しんでいました。
ボソボソと他愛もないことを言い合い、小さな笑いがあがったかと思うと、シーンと静かになり、火のはじける音が耳に心地よかった。

あれは何時ぐらいのことだったのだろう。
焚き火を囲んでいた人数は、大人はぼくと女性スタッフの2名までに減り、子どもは女の子ひとりとふたりの男の子だけになりました。
河原は虫の音がよく聞こえるほど静まり返り、ほとんどの人が寝床についているようでした。
もうそろそろ寝ないと明日がやばいね、そんな雰囲気が漂い始めたころ、ひとりの男の子が立ち上がり、女の子にそっと声を掛けたのです。

「川を見に行かないか」

声を掛けられた女の子はしぜんな仕草で立ち上がり、ふたりは焚き火から離れ、暗い川岸のほうへ行ってしまいました。

誘われた女の子は性格ルックスともに男性スタッフから一番人気のあった子で、彼が彼女を誘うなんて。
その上、さらに一緒に行っちゃうなんて。
青春劇を目撃し、ぼくはジーンと来てしまったのです。

で、取り残されたボクらは、彼らが気になってしまい、ちゃんと帰ってくるのかなぁ、もしかしたらそのままどこかに寝転ぶのかなぁ、手を握っているかなぁ、なんてことばかり頭に浮かんできて、焚き火から離れられなくなったのでした。

2005.7/11

土砂に埋まる川

050710.jpg

先週、釧路から洞爺湖まで車で移動する途中、二風谷に立ち寄りました。
帯広を抜け、日勝峠を超え、日高で進路を南へと変え、沙流川に沿って車を走らせました。
白い飛沫をあげていた川は、しだいに緩慢な流れとなり、広いダム湖へと姿をかえました。

二風谷ダム湖です。
10年ぶりに眺めるダム湖は、予想以上に土砂が溜まっているように見えました。
広大な“砂場”と言ってもいいかもしれません。
かつてここを流れていた清流の面影は、どこにもありませんでした。

二風谷ダムは、苫小牧東部に開発が予定されていた工業基地で使用する水を得るために、1971年に計画されました。
ダムに与えられた目的は「工業用水確保」であり、それ以外にはなかったはずです。
そして、この工業基地構想は計画当初の用地を確保することもなく中止となり、ダム建設の目的は消失したかに思われていました。

ダム計画地の二風谷はアイヌの人たちが聖地と呼ぶ土地であり、古来からずっとそこに暮らしてきた人々の土地でした。
しかし計画は見直されることなく、事業は進められました。
長良川河口堰と同じく、当初の計画目的が消失しても、目的は次から次へと生み出されていったのです。

ダム計画は中止されることなく、予定地の土地は強制的に国に奪われていきました。
そのやり方に異議を訴え、北海道収用委員会に対して強制収用の裁決の取消を求めた行政訴訟が起こされのは1993年のことです。

そして1997年3月。
ダムの完成翌年に、ひとつの判決が言い渡されました。
ある意味で画期的な判決でした。
「二風谷の土地はアイヌの聖地」として認められただけでなく、被告側の強制収用の違法性をも指摘した判決だったのです。
しかし「既に本件ダム本体が完成し、湛水している現状においては、本件収用裁決を取り消すことにより公の利益に著しい障害を生じる」との理由で、ダムの撤去まで含む判決には至らなかった。

原告側の実質的勝訴とはいえ「すでに完成しているから」と、ダムは当初の目的を失った今も沙流川をせき止め続けています。

いったい何のためのダムだったのか。
北海道開発局は「自然にやさしい魚道のあるダム」というパンフレットを配布する前に、もっとやるべき反省すべきことがあるのではないか。
言葉の意味をはき違えているのではないか。
コンクリートで作られた急峻な魚道は、果たして「自然にやさしい」と言えるのだろうか。

ダム下流の川は、茶色に濁った水が流れていました。
ダム湖はいずれ土砂に埋まります。

2005.7/10

土砂に埋まる川

050710.jpg

先週、釧路から洞爺湖まで車で移動する途中、二風谷に立ち寄りました。
帯広を抜け、日勝峠を超え、日高で進路を南へと変え、沙流川に沿って車を走らせました。
白い飛沫をあげていた川は、しだいに緩慢な流れとなり、広いダム湖へと姿をかえました。

二風谷ダム湖です。
10年ぶりに眺めるダム湖は、予想以上に土砂が溜まっているように見えました。
広大な“砂場”と言ってもいいかもしれません。
かつてここを流れていた清流の面影は、どこにもありませんでした。

二風谷ダムは、苫小牧東部に開発が予定されていた工業基地で使用する水を得るために、1971年に計画されました。
ダムに与えられた目的は「工業用水確保」であり、それ以外にはなかったはずです。
そして、この工業基地構想は計画当初の用地を確保することもなく中止となり、ダム建設の目的は消失したかに思われていました。

ダム計画地の二風谷はアイヌの人たちが聖地と呼ぶ土地であり、古来からずっとそこに暮らしてきた人々の土地でした。
しかし計画は見直されることなく、事業は進められました。
長良川河口堰と同じく、当初の計画目的が消失しても、目的は次から次へと生み出されていったのです。

ダム計画は中止されることなく、予定地の土地は強制的に国に奪われていきました。
そのやり方に異議を訴え、北海道収用委員会に対して強制収用の裁決の取消を求めた行政訴訟が起こされのは1993年のことです。

そして1997年3月。
ダムの完成翌年に、ひとつの判決が言い渡されました。
ある意味で画期的な判決でした。
「二風谷の土地はアイヌの聖地」として認められただけでなく、被告側の強制収用の違法性をも指摘した判決だったのです。
しかし「既に本件ダム本体が完成し、湛水している現状においては、本件収用裁決を取り消すことにより公の利益に著しい障害を生じる」との理由で、ダムの撤去まで含む判決には至らなかった。

原告側の実質的勝訴とはいえ「すでに完成しているから」と、ダムは当初の目的を失った今も沙流川をせき止め続けています。

いったい何のためのダムだったのか。
北海道開発局は「自然にやさしい魚道のあるダム」というパンフレットを配布する前に、もっとやるべき反省すべきことがあるのではないか。
言葉の意味をはき違えているのではないか。
コンクリートで作られた急峻な魚道は、果たして「自然にやさしい」と言えるのだろうか。

ダム下流の川は、茶色に濁った水が流れていました。
ダム湖はいずれ土砂に埋まります。

2005.7/10

『遊ぶな危険』の看板のかわりに

041109.jpg

出張が続き、すっかり無沙汰となった更新です。
上記写真は先日、仕事の合間に熊本県西原村にある「阿蘇ミルク牧場」で撮影したもの。

牧場施設内にある小さな池に浮かぶ筏は、牧場スタッフによる手作りの自信作。
浮力体は空になった飼料ケースで、床材は様々な大きさのコンパネや角材などが使われ、そのほとんどが廃棄物の再利用だとか。

この筏、けっして見栄えは良くないけれど、なかなかいい味が出ています。
太平洋を横断するわけでもないですし、かえってこのぐらいの手作り感が子どもの好奇心をくすぐるのかもしれません。
実際にたくさんの子どもたちが筏を見つけると駆け寄って乗り込むほど、人気がありました。

筏の上でジャンプしたり、揺らしてみたり、水しぶきをあげたりする子どもたち。
池の周辺は子どもたちの歓声に包まれ、こちらにもその楽しさが伝わってきます。

時間が立つにつれ、筏の上から誰か落ちてもおかしくないほど、遊びはエスカレート。
万が一落ちても、一番深いところで80cmぐらいしかありません。
浅いところは30cmほど。
それでも池に落ちてしまうかもしれないというちょっとしたスリルが、子どもたちを盛り上げ、興奮させているのかもしれませんね。

*旧ブログより*

2004.11/ 9

冷たい雨のなかで

041026-3.jpg

取材のため、三日前に自宅を出て、今夜は広島県三次市に来ています。
冷たい雨が朝から降っています。
昼間、そのあまりの寒さに薄いダウンジャケットをシャツの上に着込んだほどです。

新潟も冷たい雨が降っているのでしょうね。
地震から日にちが経つごとに、被害の深刻さや影響が大きくなってきているのを報道で知るたび、なんともやりきれない想いがココロに引っかかってばかりいます。

ここに何も出来ない自分がいます。
昔のようにすべてを放り出し、現場へ駆けつけることをしない自分がここにいます。
「仕事が」「撮影の日程が」を理由(言い訳)に。

今夜、写真展会場で知り合ったある方と、仕事ではなくプライベートで夕食をともにしました。
彼はいま、NPOと役所を橋渡しする部署の仕事をしていて、やはりというか新潟での起こっていることの話もしました。
ボランティアの必要性は当然として、そのコーディネイトの大切さを。

ひとしきりお酒を飲み、その方と別れ、さきほどホテルへ戻ってきました。
そしてテレビをつけ、ニュースを眺めています。
ほろ酔いかげんの、暖かい部屋で。

テレビの向こう側に映る、不自由な生活をせざるしない人たちが、一日も早くこれまでと変わらぬ「日常」に戻ることを願っています。
と、思うしかない自分が、ここにいます。

*旧ブログより*

2004.10/26

あと何人自殺したら工事を止めますか

041016.jpg

九州に来ています。
昨日、久しぶりに諫早湾を眺め、普賢岳の麓を歩きました。

諫早湾が潮受け堤防で閉め切られてから8回目の秋。
堤防の内側、潮の満ち引きがなくなった土地にセイタカアワダチソウが広がっていました。
風に揺れ、ざわめく黄色の花々。

今年も、もうじき海苔養殖の季節がやってこようとしています。

当初から危惧された諫早湾閉め切りによる漁業への影響は、年を追うごとに深刻さを増し、いまや堤防の外側に広がる有明海は瀕死に近い状況だといわれています。

今年7月。
承諾殺人罪に問われたある男性の判決が福岡地裁久留米支部で言い渡されました。

有明海で海苔養殖を営んでいた男性の裁判です。
男性は借金苦から母親との心中を決意し、自宅隣の作業小屋で母親を殺害した罪に問われていました。

母親は殺害前、男性に「お前とならよかよ。父さんの借金ば、担がせてごめんね」と語ったそうです。
そして息子に首を切られ、失血死で亡くなりました。
後に続こうとガソリンを浴びた男性は、100円ライターを握りしめたものの、子どもの顔が頭に浮かび、手が震え、どうしても火をつけることができなかったといいます。

海苔の不作が続き、漁具購入等で借り受けた資金返済の目処が立たず、働いても働いても苦しくなる生活に絶望した末の行動と、判決にはあります。

検察側の求刑は懲役5年でしたが、判決は「懲役3年・保護観察付きの執行猶予5年」。
窮状に理解を示し「同情を禁じ得ない」という言葉で、ひとつの裁判は終わりました。

約4000人もの有明海漁民が「不作が続き、多額の借金を抱え、将来が見えない。今回の事件は他人事ではない」と、男性に対して寛大な判決を求める嘆願署名を提出したことも判決に影響したのかもしれません。

東京新聞(2004.8.28付)の記事によれば、有明海周辺では干拓事業開始後に70人が自殺し、影響の大小こそあれ、漁業不振は無視できないほど深刻な影を落としています。

「あと何人自殺したら工事を止めますか」

海苔不作に代表される漁民の度重なる訴え。
そのあまりにも悲痛な言葉に、おもわず息が止まります。

事業の中止、水門の開放を求める漁民の声に、政府は真摯な態度で耳を傾けてほしい。
そしてこのような悲劇を繰り返さぬ決断をしてほしい。
切に、そう願います。

*旧ブログより*

2004.10/16

カーテン越しの…

041012.jpg

鳥取と岡山をぐるっとまわり、昨夜遅く帰宅しました。
“川ガキ”ネタではないけれど、「懐かしい感覚」繋がりということで、旅先で見かけた光景を紹介します。

始発駅となる津山駅で、岡山行き列車へ乗り換えたときのこと。
二両編成のディーゼル列車に乗り込んだものの、出発時間までだいぶありました。
乗客は、部活帰りらしい学生や買物帰りの家族、ほんのわずかな旅行者の数人のみ。

退屈を紛らわすため回りを見渡すと、向かいのボックス席でお菓子を食べていた二人の中学生が、慌ててカーテンを閉めるのに気付きました。

どうしたんだろう?と興味津々に観察すると、彼らはカーテンをほんの少しだけ開けて、窓の外をのぞきはじめたのです。

その後ろ姿は怪しさを通り越し、けっこう笑えます。
で、そのときパチリと撮影したのが、上の写真。

こうなると、なんだかカーテンの向こう側が気になります。
なので座席を移動し、ぼくも窓の外をのぞいてみました。

なーんだ。そういうことか。

怖い先輩か学校の先生がいるのかな、という想像は見事にハズレ。
彼らが見ていたのは、反対側に停車中の列車内に座っていた制服姿の女の子でした。
同い年くらいだったので、同じ学校なのかもしれません。

何となく彼らに習い、ぼくもその子を眺めることに。
ところが出発間際に視線があってしまい、慌てたのなんのって。
おもわず窓の影に隠れてしまったほどです。

これじゃまるで怪しいおっさんです。

*旧ブログより*

2004.10/12

一寸法師

041007.jpg

今から5年程前。
九州の某川で、ひとりの男の子と出会いました。
某川をカヌーで下る旅をし、終点となる川岸にその子がいたのです。
人見知りをまったくしない、小学生になったかならないかぐらいの子どもでした。

その子は、上流から流れてくるカヌーを見つけ、急いで川岸へ降りてきたといいます。
そしてぼくが上陸し、カヌーを岸にあげて後片付け作業を始めると、近寄ってきたのです。

「どこからきたと?」
「それは何に使うと?」

こんな質問をたくさんもらい、楽しい会話をしたのを覚えています。
で、最後には「カヌーに乗せて欲しいなぁ」。

大人はけっこういい加減な返事で、その場を誤摩化したりするもの。

「そうかぁ。でも、もうすぐやってくる列車で帰らないといけないから、今度会ったときに乗せてあげるよ」

本気で次に会ったときに乗せようとは、恥ずかしいけれど思っていませんでした。
そもそも、次があるかどうかさえ怪しいものだった。
誰もが思いつく、その場限りの簡単な嘘。


先日、偶然にもそのときの男の子と再会しました。
その子のお母さんが、ぼくの写真展を見に来てくださったのです。
お言葉に甘え、その日の晩は男の子の家に泊まることに。

5年ぶりに会った男の子は、幸か不幸かぼくのことを覚えてなく、カヌーに乗る約束を忘れていました。
それでも立派な少年に成長していたのが、なんだか嬉しかった。
更に嬉しいことに、男の子は「超」のつく“川ガキ”だったのです。

いとも容易く釣針とハリスを結び、ウナギ釣りの仕掛けを簡単に作り、体長80センチを超えるウナギやスッポンを捕まえたことを目を輝かしながら教えてくれました。
そして驚いたことに、「タライ」に乗って川を横断していると、男の子は言います。

さっそく翌日、“一個”ではなく“一艘(いっそう)”と男の子が呼んでいるタライを見せてもらいました。
それはまさに正真正銘の洗濯などで使うプラスティックタライで、川舟と同じくアンカーと呼ばれる錨に紐で結ばれ、川に浮かんでいました。

岸辺へ降りた男の子は、川漁師よろしく柄杓で水をかき出し、慣れた動作で紐を解いていきます。
その姿はまるで網を仕掛けに舟を漕ぎ出す漁師のよう。

そしてテキパキとタライに乗り込んだ男の子はニコニコとぼくに笑い掛け、水面を離れていきました。
長さ1メートルちょっとの竹竿を器用に操り、バランスを崩すことなく、タライは舟となり、男の子は川面の上へ。
竹竿はオールの役目をするのです。

そんな光景を前に、最初は笑っていたのですが、だんだん不思議と感動してきちゃいました。

お母さんいわく、男の子は寝言で時々「タライ」と口にするそうです。
さらに雨が降ると何度も岸辺を見下ろし、タライが流されていないか心配で落ち着かないのだとか。

たかがタライだけれども、男の子にとっては大切な「舟」そのもの。
日本広しといえども、ここまでタライを大事にしているのは、この子だけかもしれません。

ちなみに、ぼくもタライを貸してもらい、乗ってみました。
岸から離れること10センチ。
竹竿を操ろうとしたら大きく揺れ、水がザブンと入り、情けないことにヒャ〜という声をあげてしまいました。
転覆するのではと、顔はたぶんマジだったと思います。
男の子に腹を抱えてゲラゲラ笑われたのは、いうまでもありません。

*旧ブログより*

2004.10/ 7

旅する木

041005.jpg

夜明け前。
台風が過ぎ去った空に、大きな満月が浮かんでいた。
東の空が赤く染まりはじめ、夜が明けたことを知った。
無数の流木が川面を漂い、いくつかの川舟が岸辺へ打ち上げられていた。
普段とは違う吉野川を前に、少し興奮しながら堤防沿いを歩いた。

川を伝い海に流れては知らない土地へ旅する、流木という漂流物。
それら流木は、旅する木。
知らない土地へ流れゆき、土になるのだろうか。

*旧ブログより*

2004.10/ 5

とんだ一日の終わりに。

040930.jpg

荒れ狂った台風も徳島上空を通り過ぎていき、いまは風も雨もやんでいます。
月に照らされた雲が流れていく様が、なんだかなまなましい。

昨夜宿泊したホテルがいっぱいだったため、今夜はビジネスホテルと比べると少し割高なホテルにチェックインしています。
客室でLANが使えるという条件のみで、このホテルに決めたんですが…。
だけど困ったことに、ほんと些細でみみっちいことなんだけど缶ビールが高いんです。
350ml缶で、税別450円ナリ。
近くにお酒を扱っているコンビニがなかったので、今夜は酒抜きだなぁと思っていたんだけど…。

明朝は、4時半起床。
だけど、いっこうに眠くならないんですよ。
「これはある意味、酒の力が必要なんじゃないか」
そう思うことにして、結局一本飲んじゃいました。

しかし、貴重な一本だからとチビチビ飲んだのがいけなかった。
そんな飲み方でビール飲んでもぜんぜん酔わないし、眠くならないんですよね。
目的果たせず。

徳島には「吉野川みんなの会」という名前のNPOがあります。
住民が主体になって、吉野川の将来像を研究し提言を行うために設立された市民団体です。
今夜、その会で有給スタッフをしている友人に足止めをくらったことを伝えると、吉野川がかなり増水しているので、川を見に行こうと誘われました。
とりあえず見ておかないといけない気がしたので、明朝ふたりで見に行くことに。

それで4時半起きです。
徳島空港発の始発便で東京へ戻らないといけないので、ちょっと無理しちゃいましたね。
羊を数えてみたりしたけれど、いまもまだ目が爛々と輝いています。

もう一本飲もうかしら。
でも、450円(税別)は、ちと高くないかい。
あー、もうこんな時間だ。

*旧ブログより*

2004.9/30

とんだ一日。

040929.jpg

取材のため、昨日から四国へ来ています。
昨日は高知県本山町で仕事後、高知市内から徳島市内へ高速バスで移動。
今日は徳島市に近い板野町で人物取材を行いました。
予定では取材後、徳島空港から帰京するはずだったのですが…

徳島発の飛行機は、午後になって全便欠航が決定。
ならば、バスを使って神戸に渡ろうとバス亭へ向かったものの、その数分前に鳴門海峡大橋が通行止めのアナウンス。
ならばならば、通行可能な瀬戸大橋を使って岡山へ行こうと、今度は徳島駅へ向かったところ、高松方面の列車がこれまた運休。
一応、こういう事態を警戒して取材の時刻を早めたんですが、間に合わずにすっかり足止めです。

普段、あまり意識することないけれど、四国も「島」なんですね。

仕方なく徳島駅に近いホテルへチェックインし、テレビのニュースを見ています。
窓の外は、大粒の雨が塊になって空を舞っています。

とにかく水害や土砂災害のないことを祈るのみです。

*旧ブログより*

2004.9/29

郡上踊り

040816.jpg

日本三大踊りのひとつに列ねている「郡上踊り」は毎年7月下旬からはじまり、8月下旬まで町内各地を移動しながら毎晩のように続きます。
お盆期間の4日間は「徹夜踊り」と称し、朝まで踊り明かします。
8/15の終戦日にも踊りがあったほど、「郡上踊り」は生活の一部みたいなものなのだとか。

と、地元の方が教えてくれました。
それでも最近は踊りに参加する地元の人が少なくなったそうです。
親が参加しないがために子どもの姿が減り、寂しいとも。

そんななか、昨年から子どもたちを対象にした「子ども踊り」が始まったそうです。
偶然、写真展の会場でこの企画を立てられた方の話を聞きました。
「セミの鳴き声が響く頃、大人になった子どもたちにとって故郷とは、踊りを遠くにありて思うより、踊りに帰るものだと思ってほしい」。

なんとも羨ましいなあ。

*旧サイトより*

2004.8/16

郡上八幡到着

040807.jpg

途中休憩を挟みつつも、早朝には郡上八幡へ到着。
二週間前に郡上八幡を訪ねた際は美山町へ行くことも考え、250ccのスクーターバイクを使ったのですが、やはり車の方が断然楽ですね。
前回の移動でひどく疲れのは、"年のせい"だと思っていたので、なんだか安心しました。

郡上八幡へ到着早々、山田雅志さんが事前に用意してくださった竹を使い、設営開始。
山田さんは昨年美山町で開催した野外写真展に郡上からお孫さんを連れて見に来てくださいました。
そして今回、この町で写真展が開催できたのは山田さんと知り合えたことが大きいと思っています。
山田さんを紹介してくれた友人、そして山田夫妻にはものすごく感謝しています。

*旧サイトより*

2004.8/ 7

郡上八幡から美山町へ

040728.jpg

再来週から始まる写真展の準備と打ち合わせのため、先週末は郡上八幡で過ごしました。
そしてその後、水害の被害を受けた美山町へ立ち寄りました。
家屋や田畑が土砂に埋まり、声も出ないような悲痛な空気のなか、たくさんの若者たちが駆けつけ、汗を流している姿が唯一の大切な希望に思えました。
先週末は合計1万人以上の方々が各地から駆けつけ、ボランティアとして復旧作業に参加されたそうです。
それでもまだまだ十分とはいえず、現在も人手がいくらあっても足りないという状況です。
昨夏、写真展の会場として利用した河原は大きく変貌し、その写真展へ遊びに来てくれた地元の川ガキたちのなかには家屋が流失した子がいると聞いています。
一刻も早い復旧を心からお祈りするぐらいのことしか出来ず、なんともやりきれない思いです。

*旧サイトより*

2004.7/28

 1  .  2  .  3  .  4  .  5  .  6  .  7  .  8  . All pages